ヒスイとヒトの物語

このコーナーでは、敢えて鉱物学的な話をしません。

鉱物学的なヒスイの説明は色々なサイトで既に紹介されていますし、私は物理的な興味よりは、ヒスイとヒトの関係性といった文化的興味があるためです。

 

・なぜ太古にヒスイが尊ばれていたのか?

最古のヒスイ製品とされるのが、山梨県北杜市大泉村にある天神遺跡(縄文前期五千〜六千年前)のヒスイ大珠です。

大珠

糸魚川ヒスイは、緑・青・紫・白・黒の五色あるとされていますが、縄文以来、尊ばれてきたヒスイは基本的に緑色系です。

上古の東アジアでは、緑も青も区別なく青と表現されていました。

緑は萌え出でる若葉の色。

赤ん坊を嬰児(みどりご)ともいいます。

また青年期を青春と呼びます。

英語圏では、日の出や日没の時に「グリーンフラッシュ」という緑色の閃光が走る現象を幸運の印と尊んできました。

「尻が青い」という意味で、経験の浅い青年をグリーンボーイとも呼びますね。

このように緑や青は、若さや新鮮さの象徴とされてきました。

古代人は硬くて緑色に輝くヒスイに、旺盛な生命力や、新鮮な霊力を感じて尊しとしたのではないでしょうか?

万葉集にはヒスイを主題にしたと思われる次の歌が詠まれています。

  沼名河の 底なる玉
  求めて 得し玉かも
  拾いて 得し玉かも
  あたらしき 君が
  老ゆらく惜しも

「老いていくわが君にヌナカワの底で拾えるという珠を求めて贈りたい。」という不老長寿を願った意味が読み取れますので、古代人にとって緑のヒスイは、不老長寿の象徴だったと思われます。

 

・ヒスイの効能?・・・戦前は漬物石に利用されていたヒスイ

よくヒスイは何に効きますか?という質問をされます。

パワーストーン系のサイトやお店の影響でしょうが、私はヒスイをサプリメントのように「効能」を謳い文句にしたくないというか、現生利益的な価値を求めない立処にいます。

私は神社の拝殿に額づくと、頭の中が真っ白になって何も願い事が思い浮かべなくなる男ですから、もともと神頼みをする習慣がありません。

毎年四月十日に行われる糸魚川の「けんか祭り」の影響かもしれませんが、「神仏を尊び、神仏を頼まず」という考えを子供のころから自然に持っていました。

因みに薬もサプリメントも好きではありません。

仕事でヒスイ製品を作っているのに、私が勾玉などのヒスイ製品を身に付けていないのは、マリンスポーツが趣味なので何時でも身軽でいたいという実利的意味と、常にニュートラルな状態でいたいからです。

ただヒスイには、古代人が尊しとした何かが確かにあります。

ヒスイはヒトがその尊さを見つけました。

私は数ある鉱物の中からヒスイを尊しと選んだ古代人の感性と、困難な加工に挑戦してまでも大珠や勾玉を作ったヒトの営みこそが尊いと思っています。

ところが縄文以来、古代人が愛してきたヒスイは、奈良時代以降から戦前までは忘れられた存在になってしまいました。

だから戦前の日本では、ヒスイが産出しないと思い込まれていましたので、目の前にヒスイ原石が転がっていても誰もその価値に気づきませんでした。

近代人は縄文人とは価値観が違う、いや感性が違っていたのです。

例をあげると戦前の糸魚川市の民家は板葺屋根の家が多く、写真の漁師小屋のように風で屋根材が吹飛ばないように重しとしてヒスイ原石が乗せられていたそうです。

漁師小屋

また漬物石にも「緑色の重たい石」は重宝がられていたそうです。

ヒスイの尊さに気づかなければ、ただの緑色をした重い石でしかありません。

現代人は古代人と違って感性が鈍くなっていますから、その価値を学習する機会が無ければヒスイは漬物石でしかないのです。

ちょっと唯識論的でキザな表現ですが、戦前の日本におけるヒスイは「在っても無い」のと同じでした。

だからヒスイの効能という現代人的な発想だけではなく、「ヒスイを尊しとして、数千年も続いたヒスイとヒトとの歴史」に想いを馳せるということも忘れてはならないと思うのです。

私は、今ここに在るヒスイを見つめて、今ここには無い遠い過去に想いを馳せます。

まずはヒスイの効能など考えずに、素直な気持ちでヒスイを手に取って「感じて」はいかがでしょうか。

 

・世界一贅沢な糸魚川の暮らし・・・ヒスイ大珠をオモチャにしていた!

前述のように屋根材にヒスイを使っていたとは、世界一高価な屋根材かもしれません。

ヒスイの漬物石は、恐らく世界一高価な漬物石でしょう。

でもその程度で驚いてはいけません。

戦前の長者ケ原遺跡周辺の農家は、当時はただの原っぱだった遺跡から砂岩製砥石を拾っては鎌を研いでいた、という話を郷土史家の土田孝雄先生から聞きました。

農家は原っぱにいくと良い砥石が沢山落ちていると重宝がっていたらしい。

五千年前の縄文人が使った砥石を農作業に使うなんて、世界で最も贅沢な砥石だと思います。

そして戦前の糸魚川の子供たちは、糸魚川を見下ろす高台の原っぱ(長者ケ原遺跡)に行けば、緑色の孔が開いた重たい石が落ちているので、孔に紐を通してブンブン振り回しては投げ遊んでいたそうです。

ヒスイ大珠ですよ、それはきっと。

世界一贅沢なオモチャのひとつでしょう。

 

・古代に硬いヒスイの加工をどのようにしていたのか?

ぬなかわヒスイ工房の紹介で説明してありますが、古代のヒスイ加工には砂岩製の砥石が使われていました。

しかし、どこにでもある砂岩でもいいという訳ではありません。

遺跡から出土する砥石は、糸魚川の来馬層群から産出する石英を含む硬くて緻密な砂岩であると報告されています。

糸魚川以外の縄文遺跡からヒスイ原石が出土する例もあり、ヒスイ加工の可能性を示唆する報告もありますが、残念ながら肝心の砥石が伴出されていないことにはヒスイ加工をしていた証拠とはなりません。

糸魚川市教育委員会の学芸員さんは、他所の遺跡から砥石の伴出無しでヒスイ原石だけが出土した場合は、ヒスイ原石自体の威信財的価値や、石器作り用のハンマーとして珍重されていたのではないかと推測されているようです。

来馬層群の砂岩は、青海川西側の海岸で採集できるそうですが、まだ私は拾ったことがありません。

でも糸魚川の遺跡からはゴロゴロと出土します。

そんな特別な砂岩があったからこそ、糸魚川の縄文人達はヒスイ加工が成し得たのです。

ただ、それは加工の中でも整形と研磨の工程。

最初に原石を割る工程があります。


  1. 大割りの工程。
    大きな原石を硬い石で敲いて割る・・・これは内部まで割れの入った原石にのみ可能なことです。
    なんと、縄文人は原石を灰の中に埋めた上で焚火をした後で割る工夫をしていたと推測されています。
    ヒスイに関しては私は試したことはありませんが、師匠の関根秀樹先生は実験したそうです。
    硬い岩石を灰の中で400℃前後に熱することで割裂性を高め、靱性も強くするという技術は、既に旧石器時代にはメノウ加工などで使われていた技法ですから、縄文人もやっていたでしょう。

  2. 小割の工程
    原石がある程度の大きさに割れたら、砂岩で作った石鋸で根気よく切って小割りします。
    和歌山県立博物館には、小割り後からの勾玉の加工工程が分かる出土品が展示されていました。
    工程

  3. 成形・研磨の工程
    小割した原石を砥石で成形した後、研磨となります。
    現代は成形と研磨は別の電動工具で行いますが、古代には粒度の違う砥石を使い分けていただけのようです。
    最終研磨は、なめし皮に石英粉やコランダム粉等の研磨剤を付けて磨いていたのではないか?というのは、石器研究家として著名なナウマン像博物館の中村由克先生の見解。

  4. 孔開けの工程
    時間差にグレーゾ−ンはあると思いますが、概ね縄文時代には竹管、弥生時代には石針、古墳時代には鉄針が使われていたようで、開けられた孔の直径は時代と共に小さくなっていきます。
    縄文時代の遺跡から狩猟用とは別の小型の弓が出土することがあります。 手でキリモミ削孔した可能性もあるでしょうが、効率の良い弓キリ方式でも削孔していたのではないでしょうか?

    因みに下の写真は、弓キリ式発火法を実演する関根秀樹先生です。

    弓キリ式発火法

    関根秀樹先生の実験では、弓キリで竹管を回転させた場合には、ヒスイに1時間当たり1.2〜2oの孔が開けられたと報告されています。

 

・ヒスイ文化はなぜ衰退したのか?

近年、最古のヒスイ加工は新潟県柏崎市の縄文遺跡とする学説も発表されましたが、一般的には糸魚川の縄文人たちによって縄文前期(五千〜六千年前)に始まったとされています。

そして弥生時代には新潟県上越市、古墳時代には出雲地方、後に畿内に加工の中心地が移り、奈良時代にはヒスイ加工は終息します。

私見ですが、奈良時代に仏教が国教と定められて以降、明治時代の欧化啓蒙運動のように、仏教的ではない古来の因習や風俗が蛮習として規制された可能性があるように思います。

その後、聖徳太子による官位十二位の制定により、身分で衣服の素材や色まで制限されるに至り、呪術的意味を持つヒスイ、つまりアクセサリーを身に付けることは禁じられていった、というのが私の推測です。

その根拠として、大和朝廷に帰属しなかったアイヌ民族には、近代まで男性もアクセサリーをする習慣が残っていたことが挙げられます。

またアクセサリーとは本来、霊力の強化や魔除けといった呪術的意味と威信財的価値という意味があるので、理知的な仏教とは相容れなかったということもあったと思います。

但し、不動明王などの憤怒の表情を持つ仏像類には密教法具などの首飾りがお約束ですから、仏教伝来以前のヒスイや勾玉といった威信財が価値を失っていったという説に納得しています。

 

歴史上に残る最後のヒスイ製品

東大寺法華堂に安置されている国宝「不空絹索観音像」は八世紀に造られたそうですが、その宝冠に八個のヒスイ製勾玉が飾られているのが歴史上に残る最後のヒスイ製品です。

観音像

飾られている勾玉は弥生時代〜古墳時代にかけて製作されたらしく形も色も不揃いで、一緒に三個の瑪瑙製勾玉と、一個のガラス製勾玉も飾られているので、必要な勾玉を掻き集めるのに苦労した形跡があります。

何故、鎮護国家を祈願して建立された東大寺の仏像にヒスイ製勾玉を飾ったのか?

先ほどの私のヒスイ文化衰退説と矛盾するようですが、当時は大和朝廷に帰属しない「未開人」多くて、あえて反仏教的な祭祀具を使うことで「異教の未開人」を封印する呪術としたものか、または奈良時代 初期にはヒスイ製品がまだ尊ばれていたのかは不明ですが、仏像にヒスイが飾られたのが最後というのは皮肉な話しです。

 


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