ヒスイの故郷、ぬなかわの郷
・黒姫山は、ぬなかわの郷のランドマーク
糸魚川市寺町区にある私の家の周辺は、古墳時代の本家「ぬなかわ族」の本拠地と思われます。
なぜわざわざ本家としたのか、それは後述します。 家の西には糸魚川のシンボル的な黒姫山(標高1121m)という独立峰がよく見えます。
黒姫山は石灰岩の塊でできていますので、古くから石灰産業やセメント産業が栄えてきました。
「山」という漢字は、頂き三つに分かれた山の形を現した象形文字だそうですが、黒姫山は頂きが三つに分かれた「正しい山の形」をしています。
下の写真は、姫川河口付近からの黒姫山ですが、海上からもはっきりとこの形が判別できます。
ぬなかわ姫伝説が残る山であり、海上からも目立ちますので古来から漁師の「山あて」にも使われて信仰の対象にもなっていました。
恐らく黒姫山は、縄文の昔から船出の時には頭を垂れて別れを惜しみ、無地に帰郷できた時には水平線から顔を覗かせる独特の姿を見つけては小躍りした奴奈川郷のランドマークであり、故郷の象徴だったと思います。
・ぬなかわの郷ってどこ?・・・黒姫山トライアングル
別項にも書きましたが、「万葉集巻十三、三二四七」には
沼名河の 底なる玉
求めて 得し玉かも
拾いて 得し玉かも
あたらしき 君が
老ゆらく惜しも
という歌が載っています。
沼名河とは架空の地名であるとか、糸魚川市の古名が「ぬなかわ」であるので、糸魚川市のことではないか?とか論争されていたようですが、戦前に糸魚川ヒスイが再発見されてから、糸魚川こそが沼河、あるいは奴奈宜波や奴奈川とも表記されている沼名河であるという定説になりました。
ヒスイが産出する糸魚川こそが「ぬなかわの郷」ということになりますが、問題はその範囲です。
糸魚川のシンボルである黒姫山と同じ名前の山が近隣には三つあります。
西端が糸魚川の黒姫山(標高1100m)。
東端が柏崎市の黒姫山(標高891m)。
南端が長野県信濃町の黒姫山(標高2053m)。
各地の黒姫山はオラが山こそ本家本元と言っているようですが、この三つの黒姫山に囲まれた三角地帯にはぬなかわ姫を祭神とする奴奈川神社が点在しており、ぬなかわ姫の伝説もありますので、ぬなかわの郷の範囲であるという説が有力です。
・ぬなかわ族の引越し?・・・縄文から弥生時代にかけてヒスイ加工拠点の移動があった
糸魚川に長者ケ原遺跡が栄えた縄文中期(五千〜四千年前)は、一万年にも及ぶ縄文時代を通じて最も国内人口が多い27万人と推測されています。
つまり縄文時代の最盛期です。
しかし中期から後期(四千〜三千年前)にかけて次第に寒冷化が進み、それまでの狩猟採集生活だけでは生活が維持し難くなったらしく、晩期(三千〜二千五百年前)には国内人口が7万人まで落ち込みます。
その前後に折よく大陸から稲作文化を持った人々が渡来してきたので、縄文人の多くは農耕を生活の中心に据えた生活様式を取入れ、弥生時代になっていきます。
古事記には、常世から天下った天津神と国津神のお姫様が結婚してヤマトの国を作っていく過程が描かれていますが、以上のような背景を物語のベースにしているように思います。
ヒスイ加工は縄文時代には糸魚川が拠点的存在でしたが、弥生以降は遺跡の数が激減します。
反対に東隣りの上越市は縄文遺跡が少ないかわりに、弥生時代には国内最大級のヒスイ工房群が発掘されていますので、弥生時代にはヒスイ加工の加工拠点は上越市に移っていったと判断して間違いないでしょう。
ぬなかわ族が稲作に適した平野の広がる上越市に引っ越したのか?
それとも稲作で生産性が向上して、人口増大した上越市にヒスイ加工が伝播したのか?
今後の研究報告が待たれますが、糸魚川には弥生以降も細々と古墳時代までヒスイ加工が続いていた形跡がありますので、「ぬなかわ族」の分家が上越市に引っ越していったのかもしれません。
上越市教育委員会は、弥生時代に「ぬなかわ郷」の拠点が上越に移った、と推測されておられるようですので、最初に糸魚川の自宅周辺を「本家ぬなかわ郷」としたのは、以上の理由からです。
・奴奈川姫ってどんなお姫様?
文献に「ぬなかわ姫命」が出てくるのは、「古事記」「出雲国風土記逸文」等に少しだけですから、実在した人物であったかは不明です。
ただし、これら文献中のぬなかわ姫は、出雲や大和朝廷といった時の権力者の立場から描かれていますので、この点は私にとって面白くないところ。
なぜならこれらは勝利者の立場からの記述だからです。
特に出雲国風土記には、奴奈宜波比賣命とわざわざヌに奴という漢字を当てているところが、上から目線を感じてしまいます。
しかも、ぬなかわ姫は色が黒くて不美人だとか書いてあるらしい・・・原典を読んだことありませんが・・・。
この写真の銅像は、日本海を望むかっての糸魚川市役所前にありましたが、市役所が移転した現在も元の場所にひっそりと佇んでいます。
奴奈川姫が見ているのは西の能登半島方面。その先には出雲があります。
能登には出雲の北陸進出拠点があったと思われます。
足元にすがり付いているのは、八千鉾命との間に出来た建御名方神(諏訪大社下社の御祭神)です。
これら文献には、出雲の八千鉾神(大国主命)が、ぬなかわ姫に求婚したという意味のことが書かれていますが、糸魚川には出雲が攻めてきて、ぬなかわ姫を連れ去ったという伝説があるのです。
また八千鉾命と地元の神との力比べの昔話もあって、神々の戦いがあったことを連想させます。
ケシカランことに八千鉾神は、ぬなかわ姫を毒牙にかけた後(失礼!)、北九州の胸形族(宗像)のタキリ姫とも結婚しています。
八千鉾神にとっての結婚とは、ぬなかわ姫はヒスイの供給地支配、タキリ姫は朝鮮交易の利権入手といった政略的な目的であったようです。
マスコミは出雲はヤマトに征服された悲劇の王朝という扱い方をしますが、そんな記事を読むと私は激しく憤ります。
出雲もヤマトと同じことをしてきたに違いないのです。
ぬなかわ姫は出雲(一説によると能登)で、よほど酷い目にあったようで、糸魚川まで逃げ帰ってきたという伝説があります。
自宅裏の南側には京ケ峰という里山があり、ここには「ぬなかわ姫」が出雲に追いつめられて自害されたという伝説のある「稚児ケ池」がひっそりとあります。
現在は戦後の杉の植林のせいか、稚児ケ池は水が干上がって葦が密生する窪地になっていますし、糸魚川の人にも存在すら知られていません。
戦前はカッパが出る「カッパ池」とも呼ばれていたようです。
ぬなかわ姫命が現人神であったのか、空想上の女神様であったのか?
「ぬなかわ」とは沼のように淀んだ川とする本居宣長の説の他、珠の産出する川の意味とする説の二通りあります。
現在は前述したように、珠、つまりヒスイを産出する川という説が有力であるために、ヒスイを呪術的シンボルにした卑弥呼のような宗教的な族長であったと推測されています。
ただし、ぬなかわ姫とヒスイを直接的に関連付ける資料や伝承は皆無ですので、あくまでも状況証拠からの推測が定説となっているのです。
ぬなかわ姫命を祀った奴奈川神社も数ありますが、祀られた地方によって機織りの神、産鉄の神、縁結びの神、安産の神であったりと、その神格とご利益は様々です。
突飛なのは、長野県茅野市の御座石神社の御祀神としてのぬなかわ姫命で、なんと酒造りの神様でした。
長野といえば諏訪大社の下社の御祀神は建御名方神。 建御名方神は、ぬなかわ姫と出雲の八千鉾神の間に出来た子供ですので、長野県にも我らのお姫様が祀られているのは嬉しいのですが、それにしても何で酒造りの神なんだろうか?
他の文献というと諸星大二郎の「孔子暗黒伝」という漫画には、縄文系の野蛮人の「ぬなかわ族」と、魔女のような「ぬなかわ姫」が出てきます(笑)。
ヒスイが珍重され始めた縄文時代から弥生、そして古墳時代と時は移り、いつの頃からか糸魚川は「ぬなかわ郷」と呼ばれ、「ぬなかわ姫命」という女神様がこの地を治めるようになりましたが、(と推測されている)奴奈川姫は恐らく弥生時代以降の神様だと思います。
ぬなかわ姫伝説には、道教などの渡来文化の匂いがすることと、アイヌ民族のように狩猟採集文化の民であった縄文には人格紳を持つという発想は無かったと思うのです。
・ぬなかわ族ってどんな人々?
ヒスイや磨製石器の加工をし、ぬなかわ姫命を信仰する縄文の血を色濃く残した集団、それが「ぬなかわ族」と思われます。
時代でいえば、間違いないのは弥生時代〜古墳時代にかけてだと思います。
縄文時代に「ぬなかわ族」を名乗る人々がいたのか?
不明ですので、私は糸魚川の縄文人を「プロトぬなかわ族」という位置づけで考えています。
何故、彼らは縄文系の弥生人や古墳時代人だと言えるかというと、糸魚川近辺では縄文から古墳時代までの四千年前後もヒスイ加工が途切れていないことが第一に挙げられます。
また糸魚川は、アイヌ語を語源とする地名の残る西端という説もあるからです。
アイヌ民族は、文化的にも遺伝的にも縄文文化人に最も近い人々ですから「縄文系」と表現しています。
因みに「縄文人」を敢えて「縄文文化人」と書いたのは、私は縄文人と弥生人を遺伝的や形質的な人種の違いとしてではなく、文化の違いとして捉えているからです。
これは敬愛する民俗学者の宮本常一が、最晩年の講演記録でそう表現されていたことに感銘を受けて以来、必要に応じて表現を変えているからです。
・象徴としての奴奈川姫の存在
糸魚川地方は、標高三千mクラスの高山と海抜0mの日本海まで急激に落ち込む平野が少ない地勢を持っています。
ですから糸魚川には谷筋に発達した集落が沢山あり、谷ごとに方言や伝統文化も微妙に変わります。
海岸沿いにも集落はありますが、海に山が落ち込む地勢であるので川は急流であり、川を隔てた隣の集落との共同体意識はあまり強くありません。
そんな地勢に発達した集落の集合体が「ぬなかわ郷」、つまり現在の糸魚川市です。
糸魚川は集落ごとの集団帰属意識が強く結束力がある反面、他所の集落とは一線を画すという気風があります。
そんな気風がIターン者には排他的に映るようです。
写真は新潟と富山の間にある糸魚川市の親不知ですが、糸魚川の地形が高山から海まで急激に落ち込む地勢を象徴する、古来から交通の難所と歌われた天下の険です。
親不知が障壁となり富山と新潟は近代まで陸路の交通は困難でしたから、旧石器時代後半に流行った細石刃文化も、親不知から東西で作り方が違っているようです。
ある意味で「まとまりのない」糸魚川地域を統合できたのが、宗教的象徴存在であったぬなかわ姫であると思います。
古代中国の王朝は祭政一致の形態であった故に、政権交代=王朝の交代という図式がありました。
しかし日本では中世に武家が政治の実権を握ったために、祭政分離が行われ天皇家は象徴的存在として存続してきました。
糸魚川の大きな地区には糸魚川地区、能生町、青海町、早川地区・根知区などがありますが、各地にぬなかわ姫の伝説が残っています。
恐らく古代には能生ぬなかわ族・青海ぬなかわ族・根知ぬなかわ族といった独立した部族がいて、 そんな「ぬなかわ支族」が、ぬなかわ姫を「オラとこのカミさん」と崇拝していたのではないでしょうか。
・荒ぶる民、まつろわぬ民「ぬなかわ族」の末裔たち
「ぬなかわの郷」は中世くらいから「糸魚川」と呼ばれるようになります。
昭和39年の東京オリンピック景気で暗渠化されて駅前通りになってしまいましたが、かって糸魚川駅前には「城の川」という川が流れており、その川にイトヨという糸状の背びれを持ったメダカくらいの魚が沢山いたので糸魚川と呼ばれるようになったという説が有力です。
因みに私の母校である糸魚川小学校の校章は、三匹のイトヨがデザインされています。
ぬなかわ郷の呼び名が糸魚川に変わって、「ぬなかわ族」はどうなったのか?
ヒスイの加工は奈良時代に終息して国産ヒスイの存在自体も長く忘れられていましたが、ヒスイ文化が衰退して故郷の呼び名が変わった時点でぬなかわ族は滅亡したのか?
以下は中世に造られた伝説という説がありますが、面白い話なので昔話風に糸魚川弁で紹介します。
出雲がぬなかわ郷に攻めて来た時ね、戦った国津神の英雄がおったといね。
その英雄は、エボシタケル命っちゅう、粛慎(シュクシン・ミシハセ)て言われとるけんども、糸魚川の能生谷や早川谷に住んどっちゃんだわ。
粛慎っちゃ、日本のショウ(衆)じゃ無あて、シベリアの方のツングース系の狩猟民族でさ、日本海北部沿岸には、粛慎の伝説がいっぱい残っとるちゃんだわ。
そのエボシタケル命なんちゃ、出雲と戦って勝ってさ、出雲のヤンドモ(野郎共)ぁ、逃げていったっちゃんだわ。
そん時ね、エボシタケル命が喜び踊った場所っちゃ、糸魚川の鬼舞(キブ)ちゅう地名の由来なんだっちゃんだわね。
そしたら八千鉾神ちゃ、いっぱいおるお妾さんの一人をエボシタケル命に嫁がせたっちゃんだわ。
そんで二度目の戦いでエボシタケル命ぁ負けたっちゃんね。
その時にエボシタケル命が降伏した場所が、鬼伏(オニブシ)ちゅう地名の由来なんだといね。
糸魚川弁の昔話は以上ですが、方言は話し手の性別や年代、それに誰に向かって話すかで違うので、不特定多数に向かっての書き言葉だと難しいですね。
「鬼舞」と「鬼伏」は、隣接した日本海沿岸の集落です。
エボシタケル命の伝説が本当かどうかは分かりませんが、中世に造られた物語なら誰がなんのためにそのような物語を作ったのか?
きっとご先祖の無念を慰めたかった頭の良い人がいたのでしょう。
時が流れ、その後、出雲も大和に征服されました。
ぬなかわ族の支配者は出雲から大和へと変わっても、民は変わらずそこに生き続けます。
糸魚川の産土の神であり国津神でもある「ぬなかわ姫」を祀る奴奈川神社と、天津神であるアマツヒコヒコホニニギノ命を祀る天津神社を併祀した「一の宮」では、毎年四月十日に春の例大祭「けんか祭り」があります。
私の生まれ育った寺町区と、隣町の押上区の男だけに参加が許された祭りです。
隣りあった地区ですが、祭りの時だけはお互いにヤンドモ(野郎共)呼ばわりします。
けんか祭りに参加する男たちは、誰でもこの祭りに参加できることを生甲斐にしていますし、誇りに思っています。
この二つの町会が神輿をぶつけてケンカする勇壮な祭りです。
私の住む寺町が勝てば豊作、押上が勝てば豊漁という神占いでもあります。
共に半農半漁の漁師町なので、どちらが勝っても恨みっこ無しです。
この祭りの最後に奉納される舞楽は国指定民俗無形重要文化財。
新潟県には国指定民俗無形重要文化財が11ありますが、そのうちの3つまでが糸魚川市にあるは自慢。
寺町と押上は一の宮の氏子。
この地区の男達は糸魚川の誰よりこの神社を誇りに思っていると自負できます。
つまり我々は、ぬなかわ族の子孫です。
荒ぶる、そしてまつろわぬ「ぬなかわ族」の心意気は健在なのです。
興味のある方、ぜひともこの祭りの見物に来て下さい。